元市長の鐘ケ江管一さんほか 雲仙普賢岳の大火砕流の追悼行事が営まれました

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6月3日、雲仙普賢岳の大火砕流から丸27年を迎えたのを機に追悼行事が営まれました。
なお発生時刻の午後4時8分には、サイレンを合図に遺族や市民らが黙とうして犠牲者を悼みました。

雲仙普賢岳の大火砕流当時の出来事

雲仙岳は長崎県の島原半島中央部にそびえる火山です。

最高峰の平成新山をはじめ、三岳(普賢岳・国見岳・妙見岳)、五岳(野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山)を含め、東の眉山から西の猿葉山まで総計20以上の山々から構成されています。

その中の普賢岳は旧最高峰だったこともあり、雲仙普賢岳と名称を混同して用いられることが多いそうです。

なお大火砕流が発生したのは1991年6月3日の午後4時8分でした。

土石流は同年の5月15日に初めて発生し、5月24日には普賢岳に溶岩ドームの一部が崩落して、最初の火砕流が発生しました。

この頃から各社メディアが撮影・取材を行うようになったそうです。

しかし当時はその火砕流の危険性について充分な認識が広まっていなかったこともあり、報道関係者や地域住民、消防団員などの犠牲者がここまで出るきっかけにつながりました。

結果、死者43名の大惨事となり、この中には有名な火山学者であるクラフト夫妻も含まれていたそうです。

その後、天皇皇后両陛下は同年7月10日に被災地を見舞いに訪れられました。

この年は平成3年ですが、天皇が床に膝をついて直接被災者と言葉をかわされるのは歴代の天皇では初めてというエピソードもあったそうです。

(参考:Wikipedia)

今回の追悼行事では

2018年の6月3日で、大火砕流発生から丸27年を迎えます。

島原市内ではこの日、発生時刻の午後4時8分にサイレンを合図に遺族や市民らが黙とうして犠牲者を悼みました。

当時の島原市長であった鐘ケ江管一さんは「犠牲になられた43人の方々のご冥福をお祈りします」と話されたそうです。

また市内に設けられた献花台には多くの人が訪れ、鎮魂の祈りをささげられました。

当時、消防団の詰め所になっていた島原市北上木場町の農業研修所跡地では、遺族が打つ追悼の鐘が響く中、サイレンに合わせて黙とうが行われました。

団員の夫(当時26歳)を亡くした佐原次子さん(53歳)は「前年の5月に結婚したばかりだった。旦那はいつまでも旦那のままで、区切りが来ることはない」と小さな声で話されていたそうです。

また現在の古川隆三郎市長は記者団に「溶岩ドームは今も不安定だ。国に監視の継続をお願いし、市民と一体になって防災に取り組みたい」と強調されていたそうです。

更に地元の中学生約100人も島原市仁田町の追悼碑前で犠牲者を悼まれ、このうちの鐘ケ江葵さん(15歳)は「親戚の消防団員が亡くなったと両親に聞いた。噴火の記憶を忘れず、教わったことを語り継ぎたい」と語っていたそうです。

(参考:日経新聞ニュース、日テレニュース)

このニュースを通じて

雲仙普賢岳の大火砕流、ありましたねこの大災害。

当時、執筆者の私は小学生でしたが、この災害を機に火山災害に対する見方が大幅に変わったような気がします。

この記事を書いて思い出しましたが、当時は現在ほど火山に対する安全を意識した行動が軽率だった気がします。

当時学校の教科書で習った火山噴火でも、ここまで火砕流が大きかった事例は記載されていませんでした。

この災害を機に世の中の本や記事、教科書などに記載される内容が大幅に変わりましたね。

現在の子供たちはこの出来事を学校で当たり前のように習っていることでしょう。

九州地方の他の火山や富士山の火山活動等、今は色々話題になっていますが、今後もこの時の教訓が後世に引き継がれていけばと思います。

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